ヨッシーの語りっぺ日記
2011年 7月〜

2011年 7月〜2012年6月

6,30
 三菱希望館・東京からの15名、岸和田カーネーショングループ20名、兵庫豊岡5名に、
滝尻王子、そして熊野を語る。東京のとき近くに友がいて、称えてくれた、嬉しく励みになる。

6,27
 和歌山県観光連盟、ガイド専門員紀州語り部81−9号、(赤リュック)組織登録番号です。
8名、少数精鋭、よろしくお願いします。

6,24
 ハッピーウオーク、5回シリーズのラスト、発心門〜本宮間7km12;30〜16;44
48名、西浦さまとのコンビでガイドする、まず無事にアミダ熊野本宮へ到着出来たことにありがとう、
そして素敵な旅人とのえにしのありがとう、

 テーマの1つ時間の短縮、私の世界では、発心門でのお話し、定家の感動を、和歌または
漢詩のどちらかに留めて解説する、大森山・神武東征の稜線、集会所切原見えるあたりでする。
水路軽く流して河野蔵人の碑へ、バスのなかで昼食あとトイレ確実にすましてもらう、
3ケ所あるが伏拝までトイレなしをお願いする。
スタンプノート名前を記入してもらっておく、スタッフが押印する。
旅の人の数が多くなるほど、このスタイルは生きると思う・・・

6,21

 近露王子に咲くセッコクラン

 
 法師山(1121)からの眺望、アケボノツツジ、大塔山2の森(1122)、5,5日の思ひで

6,19
 220名を独りでさばく、自信につながる、赤リュック・ヨッシー
ツルアジサイ


6,18
 明石からの訪れの人(神姫バス)、220名、2回に分けて1人で語る、
拍手うれしかったょ、励みにして頑張ります。次は7月の2日と9日〜
ヤブジラミ


6,12
 鍼灸、秦の始皇帝の時代、徐福が中国からもたらす、
日本ではじめのルーツは熊野三所大権現からとのこと、竹田家に端を発し7家が普及に尽くす。
いまも江戸時代から残っているのが京都の妙鍼流、松永浄室〜
杉山流、元禄時代綱吉の御典医(杉山和一)、徐福のお墓、色合い新宮より三重の波田須の方があったとのこと、語り、宇都宮、路傍庵、大浦慈観先生、お店にて
写真の花はマルバウツギ

6,12
 オシベ、メシベ、子房、花びら(花弁)あって花、
それがいっぱいひいついて花になっているのが合弁花のキク科、
だから花びら1枚1枚が花、花びら1枚1枚にメシベもオシベも子房もある。
またキク科は、1つの茎の先に1つの花がつく、ヒメジオンから〜
ジシバリ・ヒメジオン・ハルジオン似ている。茎折ったらヒメジオンつまっている、
ハルジオン空洞とのこと〜

 サンキライ、ユリ科だったのが変わった、教えて?写真はスイカズラ
 
6,12
 龍神歩こう会メンバー、大辺路長井坂のむかう、
私は夜勤だからあきらめる、雨降らぬこと祈りながら、海の景色と大きな松ボックリ40回程踏みしめた
古道にこころいく・・・

 ベニシジミ、白い花は、ママコのシリヌグイ、花の下の柄に鋭いトゲがある、
これほどママコは憎たらしいのかなぁ〜

6;11
 秦の始皇帝から日本に渡った、徐福伝説
鍼灸の技術もその一つとのこと、そのルーツは熊野三山にあるとのこと、
徐福の漂い新宮より波田須に感じられる・・・。
ササユリ、6凛、三軒茶屋跡から平岩口にむかう右石垣?切原に行く途中三里大橋手前右石垣?
コケイランさまに送ってあげたくて探しにいく・・・

ムラサキカタバミ、普通のカタバミは黄色


オカタツナミソウ
6,10
 ハッピー・ウォーク、発心門〜本宮、12;30〜16;00
 
 坂本龍馬、近江屋で寝ていたところ襲われやられるが
そのときの刺客、あの山の越えたところにある、十津川村の天誅組と云われてが、
それは名乗られただけであったことはのちに判明するが〜
 龍馬越中ふんどしだったらの話し、ここいらには残している。
当時の男のパンツは越中ふんどしだったが、羽織袴に革靴の写真でわかるように、
龍馬はヨーロッパに心酔しており、その龍馬だったからゴム紐のパンツで寝ておった。
襲われてとき戦おうとして、鞘に手を持っていつたとき龍馬のパンツのゴム紐が切れる。
武芸に秀でた六尺の男龍馬だったが刀に手届かずやられる。
龍馬ゴム紐のパンツではなく、越中ふんどしだったら、また日本の歴史は変わっていたかもの話しが残る。だからかどうかはわからないが、太平洋戦争の兵隊みんな越中ふんどしだったのかも〜。
兵隊みんな越中ふんどしだったをガイドの中で教しえてもらう、また一つまっしなヨッシーにしてもらう。
 ありがとう、伏拝王子から本宮眺望

6,7
 きょうも語る
イヌのフグり
ヨッシー
キュウリグサ?ヤマルリソウ?
ツクバネソウ
トウバナ
オカタツナミソウ
ナルコラン
ユリ科

ヤマツツジ
ニガナ、花ニガナ、ムラサキニガナもある、
イタチハギ
コモチマンネングサ、ヒメレンゲと似ている
イヌのフグり

ツユクサ
キンポウゲ
サギゴケ?
6,04


ユリの新芽?
イツツバアケビ
5,31
 5,29,南海国際旅行さまからご依頼いただき、キタムラ・マチコサマ、マキサマをご案内する。
高原熊野神社〜牛馬童子口まで、道しるべ7〜23番、8q、新緑に抱かれ、クロモジ・シロモジ、葉に窪みが特長、木の色は白くなく茶色・コシアブラ(ウコギ科)5枚葉で主柄から、また柄があって葉にいたる姿からわかる・・・そんなふるさとの自然に出会い、こころを語り、リズムひとつにして歩く。
 ヨッシーの詩、スーパーサイヤ人、ミスターマリックの声が聞こえるの語りには拍手とどく、また一緒に歩くを約束して手を振りあう

 ヒロから貰った樹の本はいぃ本だょ、ありがとう
十丈王子にて、オカタツナミソウ
 かわいい花、熊野に咲くキュウリグサ
 蕎麦畑付近、トウバナ
 ヒメシャラ付近、ナルコユリの裏面
5,28
 あしたのご案内のために歩き下調べにいく,
上田和に行く途中にある、ヒメシャラを越えての登りはじめに咲く、ナルコユリ

5,27
 古道語りべ・熊野赤リュック、主宰するヨッシーになりました。よろしく〜

9,1  王子とは

 熊野古道、基本は密教、密教とは山伏、修験の道、そこを通じての信仰の中に王子とは、熊野信仰では、熊野権現の子どもの神さまを示したもの、なぜ子どもの神さま?、伝えによると、修行者やお参りする方の道中を守る神仏は童子、子どもの型をとる、子どもの型で現れる山伏修験道の信仰の中にある、熊野古道、基本は密教、密教とは山伏、その山伏の修験道の信仰の中に
8、8  なんだかんだ用事が生まれて行けれなかった熊野検定〜、満点はとれなかったけれど2級合格する、次は1級にむかう〜

 熊野検定2級

 1、リアス式海岸、串本〜田辺(海成段丘)枯木灘側は黒潮の影響を強く受けてより温暖、サンゴをはじめとする熱帯性生物が豊富に生息する、串本〜尾鷲(沈水海岸)熊野灘側は沿岸水の影響を受けて低温、低塩分、本来の温帯の海となりサンゴも少ない、p16

 2、玉置山、海底火山で誕生した枕状溶岩の玉石が御神体、一億年前〜5000万年前に形成され、その後に海底が隆起したもの、p17

 3、橋杭岩、23個の岩、弘法大師が造る、天の邪鬼にはばまれ大島にとどかず、p19

 4、天鳥のスランプ褶曲、砂や泥がまだ固結しきっていない状態でしわ寄せられてグニャリと曲がったとも、推積体の内部に褶曲が出来たとも、3000万年前の海底でのできごと、p20

 5、一枚岩と虫喰岩、古座川弧状岩脈、県内唯一の日本地質遺産、結晶質凝石岩でできている、宇津木石と云う名で知られている、虫喰岩(国指定天然記念物)、p23

 6、紀州御影石、那智の火祭りは那智山、新宮の御燈祭りは千穂ヶ峰、これらの火祭りが、熊野の火山活動でできた岩体の山々で催されるのは偶然であろうが〜、熊野カルデラ火山の内部にマグマが上昇して形成された熊野花崗斑岩、江戸城の石垣の石材にもちいられている記録がある〜p24

 7、ユノミネシダ、葉の展開にしかたがワラビと同じで一対の羽片が十分に伸びたあと次の羽片が伸びるを繰り返し成長する、1928、1、国指定天然記念物、p35

 8、リュウビンタイ、葉柄基部の左右に一枚ずつの黒褐色半円形で肉質の鱗状の托葉がある、古代石炭紀に栄えた一群の遺存種、熊楠はじめて那智で採取する、p36

 9、ラムサール条約、2005年、世界最北串本サンゴ群生域、人類にとって必要不可欠な湿地も広く含め登録、p38

 10、下尾井遺跡、日本唯一の飛び地、北山村、縄文時代の遺物出土、石錘が多く北山川で網漁が行われていたこと知る、関東地方に譜系のもつものが多い、p44

 11、熊野水軍、別当湛増、壇ノ浦の合戦で源氏の勝利に貢献する、軍船200艇余りで参戦するp49

 12、熊野水軍・安宅氏・小山氏、日置川河口周辺を拠点とした安宅氏阿波国から来住した宮本銭まねての模造銭も出てきている、久木白浜西向古座を拠点とした小山氏下野国栃木県鎌倉幕府の有力後家人、p53、

 13、一里塚のはじまり、松の植えている、和歌山城の橋のあったところから〜、p56

 14、新宮城跡・水野家墓地、初代新宮領領主,水野重仲1619年、田辺領は安藤直次、p62

 15、御崎会合、カツオ釣りのナワバリを管理していたもの、御崎神社に集う、p65

 16、畔田十兵衛の墓、翠山と号し本草学の研究者、水族志、古名録、本宮竹の坊の墓地内にある、玉置縫殿は本宮大智庵〜p70

 17、興禅寺、臨済宗、別名だるま寺、p72

 18、新宮・田辺藩から新宮県・田辺県、1868新宮領、田辺領は藩となる、そして1871M4年7月、廃藩置県により新宮県、田辺県となる、1871,11,22、廃止されて和歌山県に合併、p75

 19、エルトゥールル号、トルコの軍艦木造船、M23年8丁櫓の船出し救う、p77

 20、郵便橋、R42号、いまより200m上流北側にあった、郵便物を運ぶ渡し舟があったところから由来、p79
 
 21、熊野川流域開発、五新線、五条から新宮、十津川経由で結ぶ予定だったT10、S2年着工予定、p82

 22、引揚港田辺文里湾、引揚受け入れの行政局、全国18のうち、近畿では田辺文里と舞鶴が指定された、p83

 42、獅子舞、伊勢獅子、鼻黒、雄獅子、代表は那智勝浦町の高芝の獅子、古座獅子、鼻赤い、雌獅子、串本潮崎本之宮、田辺周辺はこれ、p159

 43、御燈祭り、鎌倉積み538段、2月6日、速玉,阿須賀詣でて神倉神社へ、p161

 44、田辺祭り、浜での神事、潮垢離、住矢、右周り、後下がり駄目、男松を7〜9段にしたもので矢の如く町を走り払い清める〜、p165

 45、御船祭り、日置の日の出神社、サセサセホラサセホラサセの囃子で潮かけ神事が終わる、お舟御輿を地に降ろすことはない、降ろすとその年は不漁〜p168〜170

 46、秋津川の廻り地蔵、秋津川谷川地区、備長炭のふるさと、疫病流行時にはじめられたものが多い、p174

 47、ダル、餓死者、行き倒れの亡者の仕業、奥熊野ではダロとも云う、p177

 48、串本節、江戸時代から歌い継がれてきた、オチャヤレが源流、1924年米国水上飛行機串本に遅れ、記者たちを待たすのに、町長が披露したこと、漫才師砂川捨丸が巡業先でのせたのが〜ブームとなる、p179

 49、琴の滝の牛鬼、人の影を食べる、お酒を供えた者の影は食べない、p182

 50、勢子舟のはなし、和田頼元の突き取り法から,クモの巣張っとったヒントから和田頼冶が考案した網取り法に変わる1675年、網取り法とは7種の舟が一つ、勢子舟は銛を放つ、p185

 51、徐福、天台鳥薬、日中友好の先達、p188

 52、熊野の妖怪、一つたたら、独足眼、狩場刑部左衛門、72日待ち、100の矢を放ち勝利を治める、p189

 53、方言、ものすごいな〜どいらい、かまわんといて〜てがわんといて、のんき〜きさんじ






 
 ヤタガラス

 姿、三山によって違う、
熊野本宮は両手両足を広げたもの、那智は後ろ振り向いている姿、速玉はナギノ木をくわえている姿

、熊野本宮の神木はイチイガシの木、
18  曼陀羅とは、2011、07,18

 曼陀羅とは共生の生き方を図案で示したもの、
曼陀羅でもっとも知られる両界曼陀羅、空海が中国から持ち帰った密教、その世界を眼に見える形で表現したものである、大小さまざまな仏たち、その数1800、天界を示す仏、怒りの仏、森羅万象が仏の形であらわしてる、仏すなわちそれをもって私たちに共生の生き方を図案で示している、人にはみな生きる役割がある、すなわちそれは義務ではなく使命、その使命を仏の世界で示しながら、私たちに私たちの使命を教えてくださっているもの、使命の役割分担表、野球だったら9人、サッカーだったら11人、サードはサード、キーパーはキーパーに生きるってとこかなぁ〜、文字で示したものが経典、、 

 人の短所を云ってはいけない、自分の長所を自慢してはいけない、空海〜

 
13
 黄金比、1;1,618、ミロもモナリザもパルティノンのビーィナスもそう

11  阪急27人、和泉府中の5人、広島の9人、東京の2人に語る〜終り、アユ釣りに行きたい心を交錯しながら、妻、風邪引きのため店番続投、16時近く神戸一の谷から赤ん坊を連れたカップルが訪れてくれる、滅多とないきれいな人だったょ〜2222〜、





10  阪急交通社、岡山支店に滝尻王子を語らせてもらう、
ボランティアグループ5名に後鳥羽院の碑を語り、それから何故世界遺産になれたかへと話しはつなぐ〜、語りはむずかしい、だからおもしろい〜
 
 
7-7
 きのうは淡路嶋、つな観光に語る
資料館のリズム新発見する、王子〜、乳岩伝説〜地図からそれらの存在する古道とは〜

7-6
 八木書房、早稲田大学兼築先生からまなぶ〜

 1200年、後鳥羽院3回目の訪れのおりに院が詠んだ(熊野懐紙)山河水鳥の原本、現在京都国立博物館に重要文化財として飾られている〜熊野懐紙とは後鳥羽院熊野御幸の折に詠んだ和歌懐紙のこと、これら熊野懐紙は有名で和歌会、お茶席に飾るものとしての写本、模写が多く、時代は室町からのものも存在する、だから伝として残っているものが多い、(伝とはそぅじゃないかの型で残っているもの)、これは国立国会図書館にある酒井家が出した本、甘古帖(かんこじょう)からのもの、滝尻王子の石碑に記されているのは閏信と云う書家が記したものと刻まれている〜

 藤原定家の記した、国宝御幸記原本は三井記念美術館にある、だからこれは原本の模写と云える〜、

 1118年訪れた白河上皇、摂津〜和泉、窪津王子〜地蔵堂王子、旅の日にちは2日間、その狼料、814人、16石2とう、何kのお米、そのころの食事は2食、3食は江戸時代に入ってから

 藤原宗忠の記した、中右記、宮内庁蔵、これは京都九条家のものが記したもの、原本の所在はわからないとのこと〜宗忠、子どもたちが朝廷に仕えて作法等で辛い思いをしないため記したとも伝えられている

7-5
 変哲のない山道、廃れたよような杜が何故世界遺産になれたか〜、
いままで語り続けてきた、私のメッセージ、一皮剥けたくて、読んで読んで、なおしてなおして、問いかけて問いかけて、ベストとは云えないがマイナーチェンジに至る、そのタイトルは(あるがままに)、聴きに来てください〜語りっぺ・ヨッシー

7:::1
 阪急交通社岡山支店、川嶋信尊さんからの以来を受けて語る、37名〜、山口から〜添乗員橋本さんお店に来て50名に語ってくれと云ってくれる、そして頑張る〜、アッコチャンファミリイー、高原に来た還りにお店によってくれた7人組にお礼をこめて、お話しをおくる

 岡山からは巧いと云って貰い、山口の独りからは聴いていてジィーンとするものがあったの声もらい、アッコチャンの姉さんからはいぃ事していると褒められ、また、いずれの旅人からも拍手や、笑い声もらう〜、ありがとう〜hagemini sitegannbariasu